おひとり様のちょっとしたこと

アラフィフ独女のよしなしごとです

『縄文人がなかなか稲作を始めない件』読了

縄文人がなかなか稲作を始めない件 縄文人の世界観入門』を読了しました。とてもとても面白かったです!縄文ブーム継続中。

 

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”なかなか稲作を始めない"件については、下記の本でも見ていましたが、それ以外の話もたくさん出てきます。

 


気になった部分(の私的要約)メモ。

  • 縄文時代は「贈与経済」だった。すなわちお土産交換で集落間の関係を構築していた。贈与経済が成り立つには、「カミ」という第三者の存在が必要。「カミ」から与えられたものを皆で分かち合う。こういう考え方だと集団間の争いが起こりにくい。縄文時代は比較的平和だったと考えられ、現在見つかっている縄文人の骨のうち、他殺体と認められるのはわずか20体しかないとのこと。
  • 贈与経済の崩壊は「自然物を人間が所有できる」という考えが生まれたときに始まる。「私有物」は独占して当たり前で、分かち合う必要がないからである。「土地所有」という概念は弥生時代に農耕の実現と共に始まっている。
  • 国宝にもなっている火焔型土器は、縄文時代中期の新潟県信濃川流域において500年間も作られていた。いくつもの細かい決まり事があり、それを皆几帳面に守って作っていることから「個人が作ってるうちに楽しくなってデコラティブになっちゃった」というだけではないことがわかる。
  • 縄文時代中期には雑穀栽培は朝鮮半島まで伝播しており、九州辺りの縄文人は農耕技術を知っていたと推察される。ではなぜすぐに取り入れなかったのか?諸説あるが「必要なかったから」と考えられる。縄文中期は気候もよく、狩猟採集生活で豊かに暮らせていた。
  • 縄文人が農耕を受け入れたのは日本列島の気温が下がり、植生が変わったため。縄文後期から晩期は、それまであまり積極的に食べていなかった渋みの強い木の実を懸命にアク抜きして食べたりしている。そんな中、紀元前900年あたりに北九州にイネが伝播。
  • 北九州で始まった稲作は、西日本に広がるのに約400年かかり、そこで停滞。そこから200年後にようやく東日本で始まる。農耕の受け入れ方は日本各地で様々であり、また弥生時代になってからも縄文以来の伝統的な生業を続けた人はいた。弥生人は縄文から続く自然と共生する技と大陸由来の先進技術を融合させたのである。